カルテットのリハーサルやオーケストラのパート練習の時に「クソい音」という表現をよく使う癖がある。
用例:「今のクソい音何!?触りたくないんだけど…」
改めて字にしてみると酷い発言だ…
しかし、「触りたくない」の部分は果たして必要なのか…?
クソを触りたくないのは万人共通の事例なので今さら表現する必要がない気がする。
「なに今のクソい音、トイレに流したいんだけど…」
別にこれでもいいわけだ。
ちょっと待て…トイレが水洗と誰が決めた。むしろベートーヴェンやチャイコフスキーの時代に水洗などあっただろうか!?
そう考えると自然と汲み取り式になり肥溜めになり野菜を育てるという事に繋がる。化学肥料を使うよりよっぽど美味しいトマトができる。
!?
という事はクソい音が未来の芸術を育てるということか!!
これは嬉しい驚きだ。自分でも気が付かない所でこれだけ深い事を言ってたとは…
だがもう一度推敲してみよう。
「触りたくない」…この発言はやはり適切ではないだろう。
触らなければ肥料として畑にまく事ができない。
『はだしのゲン』でも積極的に集めていた。江戸時代にはそれを集めていた商売をしていたという。
そう、価値あるものなのだ。我々の財産なのだ。
今後は「クソい音」の取り扱いには十分に気を付けなければならない。
なぜならそこには未来の芸術を育てるために必用な栄養素が詰まっているのだから…
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